若手Aの自分勝手改革論

『ココがヘンだよ学校教育』 一労働者の目線から、学校教育を妄想改革していきます。

番外 若手Aがアドラーと出会うまで 中編

子どもに嫌われ、大人にも嫌われ、保護者にも好意的に見られていない。絶望的な状況を救ってくれたのは他でもない子どもたちだった。

9月。
支援級の主任の身内に不幸があった。
数日、学校を空けることになったがタイミングの悪いことにその時期が5年宿泊教室とブッキングしていてのだ。

「A君さあ、本当に、本当に申し訳ないんだけど宿泊行ってくれないかな。無理ならいいんだけど。」

教頭からの打診があった。
経緯は色々あった。
級外の職員は子どもが小さかったり、介護を要するご家族がいたりして、泊を伴う出張には出れない。だから、支援級を級外が交代で見て、私が支援級担任として宿泊についていくということだ。

私は恥ずかしながら心の中でガッツポーズをした。
B子から離れられるからだ。
いつかなれると思っていたが、そんなことはなく。
言葉の暴力は私の心に毎日突き刺さった。

私は本当に周りが見えていなかった。
いつも2年生、あるいは3年生の教室にいたせいか学校の実情が把握できていなかった。
4年では担任いじめが発覚し、5年では学級崩壊が起きていた。

5年の支援級在籍の児童は知的に障害のある穏やかな子だったため、生活力は割と高い。
5年担任には「余裕があれば治安維持に協力してくれ」と言われたくらいだった。

今考えれば失礼な子たちだった。

ほぼ初対面なのにお尻をさわってきたり、下ネタを投げかけてきたり、いきなりあだ名を勝手につけてそれを広めたり、礼儀もくそとなっちゃいない。

でも、子どもたちとの普通の関わりが新鮮で何よりも楽しかった。

敵意もない、暴言も飛んでこない。
こんなに良い子たちはいない。

宿泊学習を終えると、支援級に何人かの子どもたちが遊びに来てくれるようになった。
担任の愚痴や、恋愛の話、友だちとの関係、習い事のこと。放課後も時間を忘れて話込むこともあった。

その日以来、学校が楽しくなった。
B子の罵倒は続いたが、5年の子どもたちに慕ってもらえる自信からか、胃も痛くなくなったし、毎朝のように吐くこともなくなった。
見事に聞き流せるようになった。

5年は私のことを先生と呼ばない。
自分達でつけた変なあだ名で呼ぶ。

「A太郎ってさ、話しやすいよね。何話しても怒らないで聞いてくれるし。」
「悩んでることとか、困ってることとかたくさんあるけど、○○(担任)に言ったら怒られるじゃん」
「なんか、先生じゃないみたいだよね。友だちって感じでもないけどさ。」

ただ話を聞くってことは担任じゃないからできることなんだろうと思う。
でも、荒れてる子どもたちだって、原因があって荒れているわけで、本当は話を聞いて欲しいって思っているんだなと。
確かに上下関係は大切かもしれないけど、この子たちが話しかけてきた時に「失礼だろ」「先生と呼べ」と頭ごなしに叱っていたら、この子たちと話をすることも、この子たちの悩みの受け皿になってあげることはできなかったんじゃないか。

B子とのことを振り替える。
思えば「~しなさい」、「~できて偉いね」。
ストレスを与え続けた結果、彼女は私の存在をストレスと感じ排除しようとしたのかもしれない。

対等な関係でなければ、本音を話すことはできないのではないか。

翌年、私は支援級の担任。しかしその後は療休に入った5年だったり、学級崩壊を起こした4年だったり目まぐるしく立場を変えた。
他の先生からしてみたら、荒れたとんでもない6年生だったかもしれないけど、私にとっては6年生は支えだった。
立場が変わっても彼ら彼女らには変わらず私に接してくれた(腹が立つこともめちゃくちゃあったけどな、無法地帯だったから)。

担任になったら、子どもたちを征服するのはやめよう。子どもたちの目線に立って、一緒に楽しく生活しよう。

私は翌年、別の学校に異動した。(6年の子たちがたくさん手紙くれた!今でも部屋に飾っている)。

そこではじめて3年生の担任をもった。
とても可愛らしくて、楽しい一年だった。
初担任の私に気を使ってくれた編成だった。
でも何よりよかったのは、子どもに「~しなさい」と強制するのをやめた。
小さなことでもたくさん褒めた。
その結果、自信もついて採用試験にも合格。

そして現任校に異動するわけさ。

そんな私に新たな試練が訪れた。

「1年生担任を任せようと思う」