若手Aの自分勝手改革論

『ココがヘンだよ学校教育』 一労働者の目線から、学校教育を妄想改革していきます。

番外 若手Aがアドラーと出会うまで 後編

もう2年前ですかね

晴れて1年生の担任になった。
楽しい1年だったことは認める上で、教員という仕事について本当に考えさせられる1年だった。

教員は子どもたちのトップに立ち、集団を導き、生活に必要な知識や技能、そして意識を伝えていくもの。要はスポーツでいう監督のようなイメージをもっていた。

担任2回目とあって、割と集団に対する指示や指導は的外れではないはず(未熟ではあるが)。今回は初任研担当とやらもいる。心強い。
しかし、こちらがどれだけ言葉かけを精選しても起きるアクシデント。

給食配付中に失禁、移動教室最中の失踪、座っていることへ耐えかねた暴走。

どうして?何で?真面目にやっているのか?
必死に子どもに訴えた、でも、変わらない。
それは当たり前で、子どもたちは大真面目に生活している。つまるところの生活力が低いだけ。

真面目に頑張る子ども、頭を抱える私。
頑張っていない人なんていないのに、みんなが苦しんでいる空間ができあがってしまった。

それが嫌で今度は褒めることにした。
小さなことでも、よく頑張ったね、できたね。
割と集団として機能するようになった。
褒めるって素晴らしいな、ちょっと手応えを感じていた。

でも、すぐに見えてきた。
「先生筆箱なくなっちゃった。」
「先生、○○さんの筆箱、僕が見つけたよ。」

自作自演

「先生、こんなにたくさんゴミ拾ったよ。」

ゴミの創作

「先生、△△さんが~していました。」

出来上がる監視社会。

結果、数人の私の期待に応えられない子はとどまることを知らず暴れまくり、その子たち意外は私の期待を満たすことを行動原理とした。




きっもちわるうううううううっっっ!
なんなんだこれはああああああああ!

今まで、教員による統率が不可能な状態のみが学級崩壊だと思っていたが、そうではなかった。

私はこの時に
「俺がやりたい仕事はコレじゃない、俺は低学年担任は向かないんだ!」
なんて、安易な思考に走っていました。

その時の夏休みに、たまたま手にした本がアルフレッド・アドラー思想について書かれている「嫌われる勇気」であった。

その時、この気持ち悪い状況に対してそれなりに危機意識をもっていた私は「褒める」ことに懐疑的になっていた。
B子とのこともあり「極度に子どもに嫌われることを恐れている」自分を変えたくて、書店で購入して読んだ。

アドラーの思想が、私にはその時教えてくれたこと。


・私は他人に期待しすぎていた。指示を出せばその通り動き成果を出す。褒めれば思った通り行動してくれる。嫌われることを恐れなければ思った通り行動してくれる。

・こちらが子どもたちを「操作しよう」という意思を子どもたちがくみ取り、私を中心とした私の期待を満たすためのコミュニティーができあがってしまった。

以前に荒れた6年生と関係を築けていた時には、こちらから操作をしよう。この子たちを良くしようという思いは偶然にもまるでなかった。
だから子どもたちが信頼してくれていた。
アドラーはこのことを「横の関係」といった。
思い上がっていた私は子どもたちに私が一方的に何かを与えてあげていたと思っていた。

でも、思い返してみると自分がこうして採用されて、教員として頑張れているのも、あの時の6年生が何気なく言葉を交わしてくれたからなんじゃないか。

と、思うと一生懸命先生をするのがばかばかしくなってきた。

夏休み明け。
褒めるのをやめた。叱るのもやめた。
価値付けをした。話し合いをした。

「○○できてえらいね。」を
「○○したおかげで、こんなにいいことがあったね。ありがとう。」にした。

「○○やめなさい。」を
「○○したから、こんなことが起きているけどどう思う?」にした。

クラスの中で、暴れまわる数人が輪の中に入るようになった。3月には保育園からの引き継ぎで「10年に1人の逸材」と言われた男の子が、6年生を送る会の代表の言葉を言う人に立候補し、選ばれた。
人のよさを探せる集団になっていった。

アドラーは優しくない。とても厳しい。

普通に生活していれば、私とて教員である前に人間であって、これまでの生活経験と積み上げてきた価値観から、子どもよりも圧倒的に自分が偉い存在なのではないかと染み込んだ偏見がおさえられなくなることもあったが、それを許してはくれなかった。

感情で怒った時に、これまでにない罪悪感と嫌悪感が私の中にふつふつ煮えたぎるようになった。

翌年4年生の担任になった。
そこからは大きな失敗は一度もないが、もしあのまま安易に子どもを操作する方法を追求し続けたとしたら、学校は私にとって大変気持ち悪いビジネスの場に成り下がっていいただろうなと思う。

ただ、1年生担任だった日々は本当に楽しくて、充実していたが、向き不向きで言ったら向いていないと思う。1年生はやっぱり、縦の関係を上手に築ける視野の広い先生が向いていると思う。

まとまらない文章ですがこんなところです。

B子、荒れた6年、1年生担任
これらの経験がなければ、アドラーの思想に共感することもなかったのだろうなと思う。
私のたどってきて、作り上げようとしてきたもやっとしたイメージを具体化したものがアドラー心理学だったということでまとめましょう。

アドラーが全てだとは思わない。
だから、皆さんにアドラーを薦める気は毛頭ありません。

色んな先生が色んなやり方で子どもを育てる中で、私はアドラーと共に今後もたくさんの子どもたちと成長していきたいと思います。