若手Aの自分勝手改革論

『ココがヘンだよ学校教育』 一労働者の目線から、学校教育を妄想改革していきます。

016 考察!!高学年担任!!

先日は駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

私が教員に興味をもった最初のきっかけは何を隠そう学園ドラマです。

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まずは『ガッコの先生
現役の小学生だったのですが、堂本剛が演じる桜木先生がとてもカッコよくて憧れました。
桜木先生は理髪店の息子である教え子に髪を洗ってもらいながらお互いに悩みを相談しあったりする様子が良く見られました。
子どもながらこんな先生がいたらいいなあなんて思っていた記憶があります。


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続きまして『新・キッズウォー』です。
初代キッズウォーは学園ドラマというよりは、ファミリー劇場のような展開、やがて主婦層からさらに幅広い世代に指示を受けてから学園ドラマに近い形に展開されていましたが、舞台は中学校でした。
そういう意味では新キッズウォー1が唯一の小学校が舞台の学園ドラマだったのでしょう。

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加地千尋さん演じる河合花が、学校のおかしな常識にこのように時にはバットを振り回してでも権利を勝ち取ろうとする姿が爽快でした。

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色々ありながらも、最後はクラス全員で「先生やめないで」と思いの丈をぶつける様子がとても心に残りました。

最後はみなさんの記憶にもあるでしょう。

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女王の教室ですね。
先生vs子ども、といった明確な構図で成り立った物語が、先生と子どもが徐々にわかりあっていくという賛否両論別れる内容ですが、どちらにも共感がもてるようなストーリーが話題を呼びました。
主役級を演じたのは志田未来さん。迫真の演技と、鬼の阿久津先生を乗り越えようとする子どもたちの姿勢に強く心を打たれた記憶があります。



子どもと先生が対立したり、協力したりしながら問題を解決していくストーリーが昔から本当に爽快で大好きでした。
今思うと、これらのストーリーの中心となっている子どもたちは『高学年』だということです。
『斎藤さん』、『エジソンの母』など、低学年が中心としたドラマは子どもを取り囲む暖かい日常ストーリーで、子どもは徹底的にかわいらしい庇護の対象として描かれています。
対して高学年を中心とした作品は、時には残酷で、そして大人の見えないところで主体的に、そして組織的の動きを展開していく子どもたちの様子が描写されています。

これらの作品は我々教育関係者が作ったわけではないわけであり、一般的イメージなのだと思います。

私が個人的に心を打たれ、教員の仕事に興味をもったのは圧倒的に高学年が描写された作品でした。

6歳から12歳
1年生の担任、6年生の担任は明らかに求められる資質、能力は全く異なります。
私見としては、同じ小学校免許で1年生も6年生も担任できるというのは少し疑念があるレベルです。

全く違う性質、全く違う世界。

それなのに何故か教員の世界では

『高学年の担任は大変』
『力がないと高学年の担任はできない』

などという謎の風潮があります。
私はここまで大きく性質の違う二つの仕事を比較する必要があるのだろうか。
そして、それが職場の雰囲気を悪くしているのではないかと思います。

よく聞かれますよね

『あの人は低学年しかもてないから』
『○○さんは信頼されているから毎年高学年担任だよね』

私な一番大変だと思うのは特別支援級、次いで低学年。

性格や特性も人それぞれ。
感じ方は人それぞれなのに。
どうしてそういう選民思想がそこに生まれるのだろうか。

長すぎる前置きですが、持論を展開していこうと思います。










私の考える理由としては
教員は『縦の関係を前提とした学級経営』を求められているからなのだと思います。

先生が偉い。子どもは先生より下。
先生が言うことを聞かせて、先生の言うことを聞く子どもにする。
そのため~しましょう。~はいけません。
という方法論を研修で教えられます。

そして、縦の関係は安定感があります。
子どもが先生は上だと思えば、考えることをせずにただ先生の言うことを聞く=偉い、いい子
どの担任になってもそれは共通しているため、ある程度徹底すれば新卒未経験初任でもある程度の学級経営はできます。
子どもは考えないから。

『先生に言っちゃおう~』

という台詞がその象徴ですよね。
目の前で怒ったおかしな行為に対しての対抗策が『偉い人への報告』と考えることなく選択されます。これでは生活力も何もつきません、自己決定能力を培う機会を思考停止によって奪っています。

しかし、高学年になると疑うことを覚えます。
学級崩壊するクラスは、緻密にボスを中心にまとまりが見られる場合があります。
学級崩壊というのは学校からの目線であり、皮肉にも担任という存在を排除しただけで立派に組織として成立しているわけです。

ただ、学級崩壊は担任の責任だけではないと思います。低、中学年のうちに無条件の降伏を前提とされてきている子どもたちが高学年になり、知恵がつき子どもたちが権力争いを挑んでみるわけです。
それに対して無条件の縦の関係になれてしまっている教員はあまりにも無力である。

縦の関係は無条件で成立するものではない。
低学年、中学年は自分一人で生きていく、判断する、生活することが難しいため大人の庇護を求める。庇護を代償に望む通りに無条件に服従する。
だから推奨されているやり方でも通用するのです。

高学年は大人の庇護を必要としない。自ら考え、動き、選ぶことができる。
言うことを聞くことによって不必要となった庇護以外の対価が得られない場合は縦の関係を築くメリットが子どもにないのです。

力のあると言われる先生は、子どもから尊敬される何かをもっています。
授業力、コミュニケーション能力、支配力…etc
高学年相手に縦の関係の継続のためには、莫大なパワーが必要なのです。
なので、高学年担任にはいわゆる力のある人がリピートする傾向があります。
5年6年5年6年。ゴロゴロという隠語も存在します。

私は思います。
高学年担任は力がないとできないのではありません。力がないと高学年の担任をできないようにしているだけだと思っています。

学園ドラマに出てきた主人公の先生たちは皆、高学年の先生と対等に、横の繋がりを保持しています。
アンチテーゼ的に、縦の関係で頭ごなしに怒鳴る先生が敵方として描かれています。

ドラマは我々教育関係者が脚本を作ったわけではありません。

だからこそ、世間の望む「よい先生」のイメージはやはりガッコの先生の桜木先生、新・キッズウォーの大月先生のような横の繋がりの先生なのではないでしょうか。女王の教室の阿久津先生も、最後まで視聴して見ると子どもを下に見ているわけではないということがわかります。

ただ、ここまでだと誤解を招きますね。

縦の関係を放棄し、横の繋がりという視点をもてる人間は良い先生だ。縦の関係に固執する先生は古い。と、論じているように感じられてしまいますね。

結論から言うとそう思っていたいです。
その方が楽だからです。

でもそうではないのです。

庇護を必要とする低学年の担任は私のような縦の関係を苦手とする教員には難しいのです。
私は一年生の担任をもったときは、横の繋がりの悩みました。
どう頑張っても権力を差し出してきます。そして、無条件の愛、庇護を求めてきます。
低学年を何年も続けてもっている先生は、子どもたちの困り感や、つまずきに見事に答えます。拾います。見逃しません。
「困るのも人生」、「他者の課題」。
一人前として扱うことで、傷ついてしまうこともあれば、行動の価値を正しくとらえられずに間違った方向に流れてしまったり、語彙力がないために子どもと私の認識が大きく異なってしまいフリーズあるいは泣いてしまうことも多々ありました。

私は次に低学年の担任をもつまでに、擬似的な縦の関係の構築を考えています。
そのあたりはアゴラも含めて時間をかけて自分に落とし込もうと思っています。

長々語りましたが短くまとめます。

低学年担任はオンロード、高学年担任はオフロードのコースです。
ただし、研修ではオフロードの走り方しか教えてくれません。オフロードの対策をしようものなら「邪道だ」と批難されます。
だから教員村にはオンロードが得意な人が多いので、いつもオフロードは数少ないオフロードが得意な人が走ります。
教員村の村民たちはオフロードはオンロードより難しいと思い込んでいます。
教員村の新しい住民たちは何も疑うことなく今日もオンロードの練習だけをしています。

決して高学年が難しいわけではありません。
と、私はそう思っています。