若手Aの自分勝手改革論

『ココがヘンだよ学校教育』 一労働者の目線から、学校教育を妄想改革していきます。

020 考察!!いじめに対する指導

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全国の先生方、お疲れさまでした。4月から数えて丁度6ヶ月が経とうとしています。
学級経営はいかがでしょうか。

さて、今日は学校教育と切っても切れないいじめについての問題を論じていきたいと思います。
Twitterにも連日のように発信しているように、いじめの問題について、私は日々ベストを尽くせるように様々な方法をもって考えています。

ベストと言える思考にたどり着くまでに何年かかるかわかりませんが、今私が考えるいじめの問題の現状と問題点、そして解決策について論じていきたいと思います。













● いじめの現状について

現在、日本の学校教育では30万件以上のいじめ案件が報告されていると言います。報告されていないものを含めるとさらに膨大な件数になるでしょう。
また、児童生徒学生に限らず、教職員を取り巻くいじめが存在するのも事実です。

封建制度」、「士農工商」。日本人は長らく厳格な身分制度によって国の基盤を確固たるものにしてきました。江戸時代などは身分制のもと200年以上も続いた訳です。
落合陽一さんの著書の中でも触れられているように、日本人は身分制度を前提とした生活の方が楽なのでしょう。部活動の上下関係なんかはその典型ですね。大人に強いられることもなく、自然とそのような関係におさまっていく。

スケールカーストという言葉があります。意図せず身分制にすがる大人の世界を見て、子どもは真似ます。子どものいじめを助長しているのは間違いなく我々大人なのだと思います。

身分制度がマッチした国民性にもかかわらず、公正平等が絶対正義と教えられているがために、非公式な風潮や空気を作り出すことによって自分にとって心地よい身分制度を仮想して生活している。その仮想を共有することで生まれたカーストの中で、よりよい自分が目指せない、行き詰まった人間が次に取る手段が他者を蹴落とし、自分より下を作ることで自分の存在に安心感をもつ。これが私の考えるいじめの構造です。






● 指導における2つの視点

いじめを指導するにあたり、もたなければいけない視点は2つあると考えます。そしてそれは担任あるいは指導者の中で切り離して考える、相互性をもたせてはいけないものであるとも考えます。



1.主観的思考

子どもたちと共に一緒に過ごす仲間として、クラスの一員としての考え方です。
いわゆるよく言われる
「いじめは絶対に許さない!!」、「いじめる側が100%悪い!!」といった言葉に象徴させる考え方です。
教員以前に人として持ち合わせているはずの感覚、人権意識の大前提です。

しかし、そう思っていても誰も救えません。




2 客観的思考

いじめ指導の一番の目的は加害者を懲らしめることではありません。学園ドラマや漫画では加害者が懲らしめられて大団円のような展開が多く見られますが、その影響もあってかいかに加害者を懲らしめるかと目的がすり変えて考えてしまう方も少なくありません。

しかし、やはり絶対的にぶれてはいけないのは被害者を守ることではないかと思います。

被害者を守るためにあらゆる角度からその瞬間瞬間のベストな判断をする。それをするために、あらゆる原因を客観的に追求することも大切です。
主観的には当然、加害者側が悪い場合においても、被害者の危機回避行動によって傷つけられることを防げることもあります。

「いじめられる側にも原因がある」

日本人はこの言葉に対してアレルギーをもっています。しかし、この"原因"という言葉に対して、深く考えたことはあるのでしょうか。
"原因"というのは、悪い状態を引き起こすにあたった事柄や事実である。誤用ではないと思います。
気圧や転校、路上に落ちている小さな石ころすらもいじめの"原因"になり得ます。
"原因"は引き起こした状態が悪ければ当てはまるものであり"原因"とされているものが善であるか悪であるかは問いませんし、その土俵にはありません。

この言葉に引っ掛かって、必死に1を説いてくる人がたくさんいます。私は残念ながらバイアスに支配されて本質が見えていない残念な人だなあという風に見てしまいます。

はっきり言わせてください。
「浅い」です。

善悪という一元的な簡単な倫理観で解決できるほど簡単な問題であれば、全国に30万件もいじめが発生したり、自殺をしたりする人間が出るわけないのです。

"原因"は本人に指摘するわけではありません。
指導の情報の一つとしてこちらで把握しておくのです。いじめの指導は人の命にかかわる重大案件です。安易な感情論的指導が事態を悪化させることも少なくありません。

いじめの原因はあらゆるところに転がっています。

加害者、被害者、傍観者、観衆。
それぞれの立場が事態を引き起こした原因についてどのように考え、結果どのような変化を引き起こしたのか分析するところがスタートだと私は考えています。






● 被害者を傷つけない、二次災害を防ぐために

よく、いじめの報告を受け、よく考えないうちに当該児童生徒を呼び出し頭ごなしに叱りつける例があります。

称賛されることもありますが、これは大変危険だと思います。称賛している層は目的が我々とは違います。被害者を守ろうなどとこれっぽっちも思っていない。

まずは勇気をもって報告してくれた子を守る細心の注意を払わなければいけません。また、その指導の結果、教員のいないところでいじめがエスカレートする可能性も視野にいれておかなければいけません。

目的は臭いものに蓋をするのではなく、被害者を守ることです。加害者側が「やめよう」と決断しない限りいじめは続きます。
担任が被害者にはりついて生活するわけにはいかない以上は、先の見通しのない正義感だけを売りにした指導は危険極まりないと思います。





● いじめは 個と個 のかかわりの複合

ここからは私のクラスの実践を例に挙げます。
私のクラスでは夏休み前にいじめがありました。

発覚してから指導を入れるまでは念入りに根回しをしました。



1.複数教員での対応

私は事実がわかってすぐに管理職、学年主任、専科に報告を入れました。しかし、聞いた話レベルでは信憑性にかけ、しらを切られてしまう可能性があったので、まずは被害者を守る。極力教室を空けないようにする、孤立を感じさせないように交流活動を減らし座学を増やすなどの対応をしました。
また、他の子への聞き取りなどなら、現状把握をさらに確固たるものにしました。
発覚から一週間、指導を行いました。
学年会で話題を共有しどのように指導をするのかを皆で考えました。
情報が明確であればあるほど、加害者に認めさせることができます。加害者が認めること以外が証拠になり得ないのが学校教育の難しいところなので、いかに情報を収集するかが大切になります。




2.指導に満足をしない。

押し付ける指導ではなく、あくまで「本当にこのままでいいの?」。と、カウンセリングマインドに基づいた指導が求められます。
ここで「いじめはよくない」、「絶対に許さない」と、主観的指導に終始すると「担任に怒られたくないからいじめをしない」→「担任がいないところでやろう」と、加害者の心の腐敗は止まりません。

私の場合は「私はとても悲しい、深く傷ついている」、「私は君たちのしていることを許すことはできない」と伝えました。
これは、アイメッセージといって、一般論や常識でマウントを取るのではなく、あくまで担任一個人がどう思うかを示すものであることで、子どもに考えを押し付けない上で非常に重要だと支援級の主任が教えてくれました(協力大切です)。

また私は被害者に「謝らせない」ことも大切だと思います。先生に怒られた→謝っておしまい。
いじめはこんなに軽い問題ではありません。
してしまったことを一生背負わなければいけません。謝るのは簡単ですが、本当に自分を見直していかなければいけないのであれば、明日から変わらなければいけない。
その一歩を自分から歩めなければ、加害者は一生、差別という沼の中で沈むことに怯えながら過ごさなければいけません。
「本当に悪いと思っているのなら、明日から少しでも自分の行動で示してください。期待しています。」
児童指導担当からいじめをして、なおも期待を示すことも大切だと学びました。
担任が加害者児童とも個として繋がることで、指導支援をし続けることが大切なんだと思います。




3.いじめの問題を終わらせない

一度根付いたいじめの根は、なかなか枯れません。
加害者達を指導し、中には不満を持ちながら、中には本当に反省しいじめをやめる、いややめたと思っている子どもたちもいると思います。

しかし、その子たちがいじめた当該の子と普通のコミュニケーションを取れていない状態をいじめの解決と言って良いのでしょうか。

私はいじめの終焉は
いじめの被害者が全員と普通のコミュニケーションを取ることができることだと思っています。
好き嫌いがあっても、教育活動の中では協力も必須ですし、会話をしないと連携が取れない部分もあると思います。

いじめをやめさせた場合

被害者は攻撃を受けなくなりますが、逆に友だちとかかわりながら勉強をしたり、他愛もない会話をしたりする権利の復帰に支障をきたします。

攻撃をしなければいいんでしょ。
加害者は今度は空気で殺しにかかります。

でもいじめはしていませんよ。どうですか?
友だちがいないのは自己責任ですよ。

こうなると担任が指導をしていくことが難しいです。

よっぽど元々のいじめが根深く、改善が難しいようであるならば「攻撃を受けない」がゴールの一つにもなり得るんでしょうけど。
私はいじめを全員で乗り越えて、被害者と加害者が最後は手を取り合う理想的構図への可能性は残しておきたいと考えています。






ここまでのおおまかな流れとしては

① 善悪を超越し、目的に沿った情報収集
② いじめをやめさせるのではなく、やめたくなるような指導
③ いじめの終焉は攻撃の終了ではない。

といったところでしょう。








● 加害者の「恩赦」を奨励する

今の司法制度についてはよくわからないのですが、かつて日本には「恩赦」という制度が存在するとのことでした。

るろうに剣心」では、明治政府の転覆を狙った志々雄真実の側近であった十本刀のメンバーが罪を帳消しにする変わりに明治政府の要人として尽くす描写がありました。
全員ではありません、受け入れるかどうかは人によってでした。

しかし、私のイメージでは実際の「恩赦」のように、能力を買っていじめを許す、というわけではありません。
ドラゴンボール」でいう「ピッコロ・べジータ理論」です。

まずは、いじめの指導を行ってからの経過観察です。うちのクラスでは三通りのパターンがありました。

パターンA群
被害者に対して頑張って普通に接しようとするものの、罪悪感からか上手く関われない。

パターンB群
完全に距離を置く。

パターンC群
コソコソ隠れて差別を続ける。


いじめの構図として考えられるのは
Bの子と被害者の対立。これは互いに原因もあるのでしょう。しかしBの子が仲良しのA群の子たちにあることないこと悪評を吹き込み、それを信じたA群の子たちが数の暴力で距離を置いたり冷たく接したりしていくうちに、周りの子が空気を感じとり傍観や観衆に成り下がるというものです。

善悪を超越した原因の分析により、被害者と個々のかかわりについて担任が把握しているということがここで重要になってきます。

私はA群の子達を呼びます。
そして「あれから、自分達なりに変わろうという意思が見える気がするけど、何か意識してるの?」など話を聞きます。
「君たちの力がプラスの方向に働くとクラスもまとまっていくよね」など、今度はアイメッセージでらなく客観的視点を伝え、貢献感を満たします。
そこで「でも、まだ陰でコソコソ差別をしている人がいて悲しい。君たちはどう思う」と意見を求めつつ、一緒に解決としていこうと前向きな言葉で締めくくります。

A群か塊で被害者だった子と進んでコミュニケーションを取るようになると、傍観者や観衆も変わります。この層の子たちは空気に敏感です。また、いじめたくて被害者の子を差別していたわけではないので、良いか悪いかは別として潮の流れが変われば何事もなかったかのように普通のコミュニケーションを取るようになります。

増え鬼方式で協力者が増えると、小さな密告者も増えてきます。

傍観者や観衆にも様々な種類がいます。良くも悪くもずる賢い子は前述の通りに振る舞いを変えますが、中には差別という甘い密に取り残されてしまう子もいます。また、そのいじめを再燃させ自分のポジションを確立させようと観衆から加害者に名乗りを挙げるような子も出てきます。

そこで頼りになるのがピッコロ、べジータです。

悟空がコミックス15巻でピッコロに止めをさしていたら、ラディッツ襲来で地球は滅ぼされていたことでしょう。

いじめの問題にはチームで取り組みます。
でも、チームとは大人の繋がりだけではありません。子どもたちもチームです。

いじめの目的は一貫して「被害者を守ること」です。「加害者を懲らしめる」ことではありません。

最後にC群です。
この段階まで来ると、C群に残る子達は限定されてきます。これまでのクラスでは叱られてばかりだった子、自分に自信がない子、コンプレックスがある子です。あまり多くはありません。

それぞれの子たちを個別に呼んで叱ります。
潮の流れが変わった状態では、彼らも無力です。
最後の雑草抜きのようなものでしょう。
叱ることがベストではないと思いますが、今度はこの子らが孤立してしまわぬ前に、やめさせます。

このC群は申し訳ないことに、またいずれ人を変えて同じことを繰り返すでしょう。
が、いじめの指導の最大の目的は一貫して「被害者を守る」ことです。

しかし、そこまでフォローするのが教育。
そのあたりのことはゆくゆく考えていきます。







● いじめの問題は単純ではない


私のクラスのいじめは潮目が変わりました。
多くの人の協力を得たこと、一貫して「被害者を救う」ことだけを目的に突き進んだとこ、そしてクラスの子どもたちを信じたことが要因でした。

特定の危険性もあるので記述はしませんが、その他にも様々な取り組みを行い。私自身も数限りない著書を読み漁り、人にも会いに行きました。

悔しくて眠れない夜もありました。
いじめに苦しむこの子とを考えると、食事が喉を通らないこともありました。

でもだからこそ、まだゴールではありませんが乗り越えるための一歩をみんなで踏み出せたのだと思います。

いじめの問題は単純ではありません。

今後Twitterでのいじめに関する考え方の発信は一切控えようと思います。だからこそ、ここにまとめさせていただきました。

理由としては論ずるに値しない残念な反論か多く、悲しい気持ちになるからです。

「いじめられている側に原因があるなんて、それでも教師か」
「どうせ、上部だけの対応で終わらせている」
「いじめの被害者に原因はありません、いじめる方が100%悪いにきまっています」
「やっぱりいじめられている子がいなくなればいいのにって思っているんですか」
「いいから加害者を叱ってください」

私は、この思想こそがいじめという火に注がれる油であると考えています。

自分にとって大切な人がいじめられていて、それを守ろうとしない人がいるのだろうか。