若手Aの自分勝手改革論

『ココがヘンだよ学校教育』 一労働者の目線から、学校教育を妄想改革していきます。

020 考察!!いじめに対する指導

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全国の先生方、お疲れさまでした。4月から数えて丁度6ヶ月が経とうとしています。
学級経営はいかがでしょうか。

さて、今日は学校教育と切っても切れないいじめについての問題を論じていきたいと思います。
Twitterにも連日のように発信しているように、いじめの問題について、私は日々ベストを尽くせるように様々な方法をもって考えています。

ベストと言える思考にたどり着くまでに何年かかるかわかりませんが、今私が考えるいじめの問題の現状と問題点、そして解決策について論じていきたいと思います。













● いじめの現状について

現在、日本の学校教育では30万件以上のいじめ案件が報告されていると言います。報告されていないものを含めるとさらに膨大な件数になるでしょう。
また、児童生徒学生に限らず、教職員を取り巻くいじめが存在するのも事実です。

封建制度」、「士農工商」。日本人は長らく厳格な身分制度によって国の基盤を確固たるものにしてきました。江戸時代などは身分制のもと200年以上も続いた訳です。
落合陽一さんの著書の中でも触れられているように、日本人は身分制度を前提とした生活の方が楽なのでしょう。部活動の上下関係なんかはその典型ですね。大人に強いられることもなく、自然とそのような関係におさまっていく。

スケールカーストという言葉があります。意図せず身分制にすがる大人の世界を見て、子どもは真似ます。子どものいじめを助長しているのは間違いなく我々大人なのだと思います。

身分制度がマッチした国民性にもかかわらず、公正平等が絶対正義と教えられているがために、非公式な風潮や空気を作り出すことによって自分にとって心地よい身分制度を仮想して生活している。その仮想を共有することで生まれたカーストの中で、よりよい自分が目指せない、行き詰まった人間が次に取る手段が他者を蹴落とし、自分より下を作ることで自分の存在に安心感をもつ。これが私の考えるいじめの構造です。






● 指導における2つの視点

いじめを指導するにあたり、もたなければいけない視点は2つあると考えます。そしてそれは担任あるいは指導者の中で切り離して考える、相互性をもたせてはいけないものであるとも考えます。



1.主観的思考

子どもたちと共に一緒に過ごす仲間として、クラスの一員としての考え方です。
いわゆるよく言われる
「いじめは絶対に許さない!!」、「いじめる側が100%悪い!!」といった言葉に象徴させる考え方です。
教員以前に人として持ち合わせているはずの感覚、人権意識の大前提です。

しかし、そう思っていても誰も救えません。




2 客観的思考

いじめ指導の一番の目的は加害者を懲らしめることではありません。学園ドラマや漫画では加害者が懲らしめられて大団円のような展開が多く見られますが、その影響もあってかいかに加害者を懲らしめるかと目的がすり変えて考えてしまう方も少なくありません。

しかし、やはり絶対的にぶれてはいけないのは被害者を守ることではないかと思います。

被害者を守るためにあらゆる角度からその瞬間瞬間のベストな判断をする。それをするために、あらゆる原因を客観的に追求することも大切です。
主観的には当然、加害者側が悪い場合においても、被害者の危機回避行動によって傷つけられることを防げることもあります。

「いじめられる側にも原因がある」

日本人はこの言葉に対してアレルギーをもっています。しかし、この"原因"という言葉に対して、深く考えたことはあるのでしょうか。
"原因"というのは、悪い状態を引き起こすにあたった事柄や事実である。誤用ではないと思います。
気圧や転校、路上に落ちている小さな石ころすらもいじめの"原因"になり得ます。
"原因"は引き起こした状態が悪ければ当てはまるものであり"原因"とされているものが善であるか悪であるかは問いませんし、その土俵にはありません。

この言葉に引っ掛かって、必死に1を説いてくる人がたくさんいます。私は残念ながらバイアスに支配されて本質が見えていない残念な人だなあという風に見てしまいます。

はっきり言わせてください。
「浅い」です。

善悪という一元的な簡単な倫理観で解決できるほど簡単な問題であれば、全国に30万件もいじめが発生したり、自殺をしたりする人間が出るわけないのです。

"原因"は本人に指摘するわけではありません。
指導の情報の一つとしてこちらで把握しておくのです。いじめの指導は人の命にかかわる重大案件です。安易な感情論的指導が事態を悪化させることも少なくありません。

いじめの原因はあらゆるところに転がっています。

加害者、被害者、傍観者、観衆。
それぞれの立場が事態を引き起こした原因についてどのように考え、結果どのような変化を引き起こしたのか分析するところがスタートだと私は考えています。






● 被害者を傷つけない、二次災害を防ぐために

よく、いじめの報告を受け、よく考えないうちに当該児童生徒を呼び出し頭ごなしに叱りつける例があります。

称賛されることもありますが、これは大変危険だと思います。称賛している層は目的が我々とは違います。被害者を守ろうなどとこれっぽっちも思っていない。

まずは勇気をもって報告してくれた子を守る細心の注意を払わなければいけません。また、その指導の結果、教員のいないところでいじめがエスカレートする可能性も視野にいれておかなければいけません。

目的は臭いものに蓋をするのではなく、被害者を守ることです。加害者側が「やめよう」と決断しない限りいじめは続きます。
担任が被害者にはりついて生活するわけにはいかない以上は、先の見通しのない正義感だけを売りにした指導は危険極まりないと思います。





● いじめは 個と個 のかかわりの複合

ここからは私のクラスの実践を例に挙げます。
私のクラスでは夏休み前にいじめがありました。

発覚してから指導を入れるまでは念入りに根回しをしました。



1.複数教員での対応

私は事実がわかってすぐに管理職、学年主任、専科に報告を入れました。しかし、聞いた話レベルでは信憑性にかけ、しらを切られてしまう可能性があったので、まずは被害者を守る。極力教室を空けないようにする、孤立を感じさせないように交流活動を減らし座学を増やすなどの対応をしました。
また、他の子への聞き取りなどなら、現状把握をさらに確固たるものにしました。
発覚から一週間、指導を行いました。
学年会で話題を共有しどのように指導をするのかを皆で考えました。
情報が明確であればあるほど、加害者に認めさせることができます。加害者が認めること以外が証拠になり得ないのが学校教育の難しいところなので、いかに情報を収集するかが大切になります。




2.指導に満足をしない。

押し付ける指導ではなく、あくまで「本当にこのままでいいの?」。と、カウンセリングマインドに基づいた指導が求められます。
ここで「いじめはよくない」、「絶対に許さない」と、主観的指導に終始すると「担任に怒られたくないからいじめをしない」→「担任がいないところでやろう」と、加害者の心の腐敗は止まりません。

私の場合は「私はとても悲しい、深く傷ついている」、「私は君たちのしていることを許すことはできない」と伝えました。
これは、アイメッセージといって、一般論や常識でマウントを取るのではなく、あくまで担任一個人がどう思うかを示すものであることで、子どもに考えを押し付けない上で非常に重要だと支援級の主任が教えてくれました(協力大切です)。

また私は被害者に「謝らせない」ことも大切だと思います。先生に怒られた→謝っておしまい。
いじめはこんなに軽い問題ではありません。
してしまったことを一生背負わなければいけません。謝るのは簡単ですが、本当に自分を見直していかなければいけないのであれば、明日から変わらなければいけない。
その一歩を自分から歩めなければ、加害者は一生、差別という沼の中で沈むことに怯えながら過ごさなければいけません。
「本当に悪いと思っているのなら、明日から少しでも自分の行動で示してください。期待しています。」
児童指導担当からいじめをして、なおも期待を示すことも大切だと学びました。
担任が加害者児童とも個として繋がることで、指導支援をし続けることが大切なんだと思います。




3.いじめの問題を終わらせない

一度根付いたいじめの根は、なかなか枯れません。
加害者達を指導し、中には不満を持ちながら、中には本当に反省しいじめをやめる、いややめたと思っている子どもたちもいると思います。

しかし、その子たちがいじめた当該の子と普通のコミュニケーションを取れていない状態をいじめの解決と言って良いのでしょうか。

私はいじめの終焉は
いじめの被害者が全員と普通のコミュニケーションを取ることができることだと思っています。
好き嫌いがあっても、教育活動の中では協力も必須ですし、会話をしないと連携が取れない部分もあると思います。

いじめをやめさせた場合

被害者は攻撃を受けなくなりますが、逆に友だちとかかわりながら勉強をしたり、他愛もない会話をしたりする権利の復帰に支障をきたします。

攻撃をしなければいいんでしょ。
加害者は今度は空気で殺しにかかります。

でもいじめはしていませんよ。どうですか?
友だちがいないのは自己責任ですよ。

こうなると担任が指導をしていくことが難しいです。

よっぽど元々のいじめが根深く、改善が難しいようであるならば「攻撃を受けない」がゴールの一つにもなり得るんでしょうけど。
私はいじめを全員で乗り越えて、被害者と加害者が最後は手を取り合う理想的構図への可能性は残しておきたいと考えています。






ここまでのおおまかな流れとしては

① 善悪を超越し、目的に沿った情報収集
② いじめをやめさせるのではなく、やめたくなるような指導
③ いじめの終焉は攻撃の終了ではない。

といったところでしょう。








● 加害者の「恩赦」を奨励する

今の司法制度についてはよくわからないのですが、かつて日本には「恩赦」という制度が存在するとのことでした。

るろうに剣心」では、明治政府の転覆を狙った志々雄真実の側近であった十本刀のメンバーが罪を帳消しにする変わりに明治政府の要人として尽くす描写がありました。
全員ではありません、受け入れるかどうかは人によってでした。

しかし、私のイメージでは実際の「恩赦」のように、能力を買っていじめを許す、というわけではありません。
ドラゴンボール」でいう「ピッコロ・べジータ理論」です。

まずは、いじめの指導を行ってからの経過観察です。うちのクラスでは三通りのパターンがありました。

パターンA群
被害者に対して頑張って普通に接しようとするものの、罪悪感からか上手く関われない。

パターンB群
完全に距離を置く。

パターンC群
コソコソ隠れて差別を続ける。


いじめの構図として考えられるのは
Bの子と被害者の対立。これは互いに原因もあるのでしょう。しかしBの子が仲良しのA群の子たちにあることないこと悪評を吹き込み、それを信じたA群の子たちが数の暴力で距離を置いたり冷たく接したりしていくうちに、周りの子が空気を感じとり傍観や観衆に成り下がるというものです。

善悪を超越した原因の分析により、被害者と個々のかかわりについて担任が把握しているということがここで重要になってきます。

私はA群の子達を呼びます。
そして「あれから、自分達なりに変わろうという意思が見える気がするけど、何か意識してるの?」など話を聞きます。
「君たちの力がプラスの方向に働くとクラスもまとまっていくよね」など、今度はアイメッセージでらなく客観的視点を伝え、貢献感を満たします。
そこで「でも、まだ陰でコソコソ差別をしている人がいて悲しい。君たちはどう思う」と意見を求めつつ、一緒に解決としていこうと前向きな言葉で締めくくります。

A群か塊で被害者だった子と進んでコミュニケーションを取るようになると、傍観者や観衆も変わります。この層の子たちは空気に敏感です。また、いじめたくて被害者の子を差別していたわけではないので、良いか悪いかは別として潮の流れが変われば何事もなかったかのように普通のコミュニケーションを取るようになります。

増え鬼方式で協力者が増えると、小さな密告者も増えてきます。

傍観者や観衆にも様々な種類がいます。良くも悪くもずる賢い子は前述の通りに振る舞いを変えますが、中には差別という甘い密に取り残されてしまう子もいます。また、そのいじめを再燃させ自分のポジションを確立させようと観衆から加害者に名乗りを挙げるような子も出てきます。

そこで頼りになるのがピッコロ、べジータです。

悟空がコミックス15巻でピッコロに止めをさしていたら、ラディッツ襲来で地球は滅ぼされていたことでしょう。

いじめの問題にはチームで取り組みます。
でも、チームとは大人の繋がりだけではありません。子どもたちもチームです。

いじめの目的は一貫して「被害者を守ること」です。「加害者を懲らしめる」ことではありません。

最後にC群です。
この段階まで来ると、C群に残る子達は限定されてきます。これまでのクラスでは叱られてばかりだった子、自分に自信がない子、コンプレックスがある子です。あまり多くはありません。

それぞれの子たちを個別に呼んで叱ります。
潮の流れが変わった状態では、彼らも無力です。
最後の雑草抜きのようなものでしょう。
叱ることがベストではないと思いますが、今度はこの子らが孤立してしまわぬ前に、やめさせます。

このC群は申し訳ないことに、またいずれ人を変えて同じことを繰り返すでしょう。
が、いじめの指導の最大の目的は一貫して「被害者を守る」ことです。

しかし、そこまでフォローするのが教育。
そのあたりのことはゆくゆく考えていきます。







● いじめの問題は単純ではない


私のクラスのいじめは潮目が変わりました。
多くの人の協力を得たこと、一貫して「被害者を救う」ことだけを目的に突き進んだとこ、そしてクラスの子どもたちを信じたことが要因でした。

特定の危険性もあるので記述はしませんが、その他にも様々な取り組みを行い。私自身も数限りない著書を読み漁り、人にも会いに行きました。

悔しくて眠れない夜もありました。
いじめに苦しむこの子とを考えると、食事が喉を通らないこともありました。

でもだからこそ、まだゴールではありませんが乗り越えるための一歩をみんなで踏み出せたのだと思います。

いじめの問題は単純ではありません。

今後Twitterでのいじめに関する考え方の発信は一切控えようと思います。だからこそ、ここにまとめさせていただきました。

理由としては論ずるに値しない残念な反論か多く、悲しい気持ちになるからです。

「いじめられている側に原因があるなんて、それでも教師か」
「どうせ、上部だけの対応で終わらせている」
「いじめの被害者に原因はありません、いじめる方が100%悪いにきまっています」
「やっぱりいじめられている子がいなくなればいいのにって思っているんですか」
「いいから加害者を叱ってください」

私は、この思想こそがいじめという火に注がれる油であると考えています。

自分にとって大切な人がいじめられていて、それを守ろうとしない人がいるのだろうか。

019 ポケモンDPから学ぶ多様性の定義 Part2

前回の続きです。

ポケモンとの絆や信頼関係を大切にする。ポケモン一匹一匹と代替不能な普遍的関係性をもつ中で最強を目指すティール組織的トレーナー、サトシ。

ポケモンを手駒として割り切り、実践を通し選抜を繰り返すことで精錬された最強を目指すトレーナー、シンジ。

そんなシンジに捨てられたヒコザル
そんなヒコザルを受け入れたサトシ。

シンジの元で厳しいトレーニングを課されてきたヒコザルは、サトシとポケモンたちの楽しいランチタイムになかなか馴染むことができませんでした。

そしてその後、バトルの練習。
ヒコザルポッチャマと練習バトルをするのですが、健闘虚しく負けてしまいます。
シンジはバトルに負けた時にヒコザルを激しく叱責しました。しかし、サトシは負けたヒコザルを抱き締めました。

「よくやったなヒコザル

そんなサトシの優しさにヒコザルは思わず泣き出してしまいます。

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夜、過去の悪夢にうなされ、一人目を覚ますヒコザル

まるで強豪校をやめて、地方の公立に編入した野球部員のようです。

本当に自分はこれでよかったのか、悩むヒコザルの話し相手になったのはコイツでした。

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ロケット団の3人は陰ながら不遇のヒコザルに心を痛めていました。

「過去を捨て、今を生きるのニャ」

こうしてヒコザルはサトシのポケモンになりました。








その後もサトシとシンジは随所で接触します。

色々ありましたが象徴的な出来事を抜粋します。

街を荒らしていたグライオン率いるグライガーの群れが二人の前に現れました。

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シンジは迷わず群れのボスであるグライオンに目をつけてゲットします。
サトシは、群れの中でいつも食べ物に目を奪われたり、一人でどこかに行ってしまうようなADHD的なグライガーをゲットします。

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一方、シンジは尊敬していた兄レイジが勝てなかったジンダイというレジェンドトレーナーに過去にサトシが勝ったことがあるということを聞きます。

また自分が弱いと値踏みしたムックルグライガーヒコザルを成長させているサトシに対して嫌いで気に入らないという感情以上に気になって仕方ないという状況に陥っていきます。

シンジはサトシど同様に様々な地方のポケモンリーグに参加していたが、思ったような結果が出ずに焦っていたようです。
ジンダイや、兄レイジの助言を受け、焦りが消えたシンジはサトシを見下した物言いをするのをやめました。

そんな中でサトシとも親交のあるレイジから提案が「そんなにお互い気になってるならフルバトルしちゃえよ」
そんなことでフルバトルを行いました。

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結果はシンジが終始圧倒。
絶体絶命のサトシ。

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そんなサトシを救ったのはヒコザル
ヒコザルが進化してモウカザルになりました。

でも負けました。

モウカザルの躍動も4点ビハインドの9回にソロホームランを打った程度の反撃にとどまりました。

これはいい展開だと思いました。
いやー、勝たないんだ!
それも接戦ではなく、シンジの圧勝。

しかし精神的に一つ壁を乗り越えたシンジはサトシを見下すようなことはしません。
自分と違うやり方の人間を圧倒した。
それでもシンジは何も言いません。
サトシは悔しさを噛み締めます。

やり方、考え方の違う二人はこの瞬間、本当のライバルになりました。

大人の世界だったら
「ほら、お前のやりかた間違っているだろ」
間違いなくマウントを取りたがりますよね。
サトシが勝っていても、恐らくマウントを取っていたのではないでしょうか。

これまで徹底的なアンチテーゼとして描かれてきたシンジ。

考えさせられるものはありました。






次にサトシとシンジが対峙するのはシンオウリーグです。ベスト8をかけた戦いです。

これがとても面白いのです。

シンジはサトシのバトルや手持ちを冷静に分析してサトシに有効なポケモンを選択します。
計画を立てて、シュミレーションでテストを行い、分析して、対サトシの練習をします。
けテぶれの先取りです。
けテぶれの創始者はシンジでした。
ただし、切り札のエレキブル(ヒコザルをいじめていた)は残留スタメン入りです。

サトシは前回のフルバトルでシンジに負けた6匹をそのまま選択しました。

切り札であるアイツ

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も呼び戻していたのですが。
その手持ちが

シンジに値踏みされゲットすらされなかったムックルから進化したムクホークADHDグライガーが進化したグライオン。そして、捨てられたヒコザルから進化したモウカザルがさらに進化したゴウカザル。お馴染みピカチュウもスタメンです。

バトルではシンジはシンジらしい、先に出る2体を犠牲にサトシのポケモンを分析するという合理的な戦法に加えて、サトシの編み出したカウンターシールドという戦法を取り入れるなどクレバーな戦い方でサトシを翻弄します。

教員が一番苦手なことですね。
苦手な奴のいいところを真似する。
実に合理的です。

しかしサトシもシンジのやり方を全否定するようなことはしません。シンジを悪と決めつけず、その強さを打ち破るために様々な策略を練ります。

これも教員はできていませんね。
アイツのやり方が気に入らない。
だからやめさせる。ではなく、認めた上でそれよりも自分のやり方を高め、よりよい指導を目指す。
どうしても気に入らないものを文句を言ってやめさせようとする我々はサトシから学ばなければなりませんね。

序盤は互角と見せかけ、シンジの策略にはまったサトシ。中盤は前回同様圧倒されます。しかしピカチュウの奮闘によりやや持ち直します。
が、ピカチュウが力尽きるとサトシの手持ちは満身創痍のゴウカザルのみ。シンジはほぼフルパワーのエレキブルが残ります。

そして、やはりエレキブルが勝ちます。

しかし倒れたゴウカザルエレキブルは必要に挑発します。シンジも同様です。

「どうした、お前の力はその程度だったのか」

審判がバトル終了を宣告する直前。
ゴウカザルが立ち上がりました。

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まるで孫悟飯です。

で、名曲タイプワイルドを背にゴウカザルエレキブルを倒します。

ゴウカザルはシンジの元へ。

「どうだ、強くなっただろ」

と、言わんばかりの誇示。

シンジは
「強く…」

と呟き、言葉を飲み込みます。

言いかけたところでゴウカザルは倒れてしまいます。

自分の元で開花しなかった才能を開花させたゴウカザルを心の底から認める心意気。

自分のクラスで活躍できなかった問題児が、嫌いな奴のクラスで華開いた時、その子のことを認める度量は我々には果たしてあるのでしょうか。

そして

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またバトルしようなー。

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シンジは無言で右手を上げて答えます。


互いを罵倒し、認めようとしなかった前半。
しかし、違いを認め合い、相手のよさを知った上で自分を高めた後半。

サトシもシンジの関係に言葉はありませんでした。

私は当時、普通に子ども向けの割に面白いなあ。と、思って見ていましたが。ここには我々の足りないものがたくさん詰まっている。そしてわかり合えなくても認め合うことができるということを、今思うと教えてくれたように思えます。

子どもたちはどう感じ取っているのでしょうか。
よくわかりません。
でも、この物語には大人たちに対する痛烈な皮肉が込められているような気がしました。

憎み合う負のエネルギーよりも、それを認め乗り越えようとする正のエネルギーは強い。
だから、多様性は必要なのではないでしょうか。

そろそろ新学期ですね。

私もあの人や、あの人をシンジだと思って、憎むのではなく認めることで自分を高めて行きたいと思います。

018 ポケモンDPから学ぶ多様性の定義 Part1

夏休みもそろそろ終わりですね。

ところでみなさん
ポケモン」と言えば何をイメージしますか?
子どもの時に流行ったゲーム、アニメ。
最近増えすぎて何匹だかわからない。
ポケモンGOが話題。色々ありますが、多かれ少なかれ皆さんの生活の中でポケモンという情報が生活の中に入ってくることはあったかと思います。

私がポケモン、いやポケモンアニメにハマったのは大学2年生の時です。
小学生の時はデジモンアドベンチャーモンスターファームなど、もう少し殺伐とした冒険物語が好きな刷れた悪ガキだったので、やっていれば見るけど程度のものでした。
ほのぼのとした雰囲気、お約束のロケット団、かわいいキャラクター。
ファミリー向けのアニメという印象が強いポケモンですが、実は一時だけ、雰囲気を残しつつも作風を大きく変えた時期がありました。

ポケットモンスター ダイヤモンド&パール(以下DPと記載)。

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サトシのは多くのライバルトレーナーと出会い切磋琢磨してきました。

例えばシゲル
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サトシを小馬鹿にしつつ、でも良き友だちのような存在でありました。

しかし、ここで登場したライバルは違います。
サトシとは真逆の価値観をもったトレーナー

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シンジが登場します。

シンジとサトシの出会いはムックル捕獲についての価値観です。シンジは無数に現れた野生のムックルで一番強い個体をゲットします。
それを見たサトシは強さだけでゲットするポケモンを決めるのはどうなんだと、突っかかりバトルになります。

ご存じの通りポケモンを友だちのように慕い、信頼するサトシ。

シンジはバトルの中で捕獲したムックルが期待に沿う個体ではなかったとしてその場で逃がします。まさにキャッチ&リリース。

また、バトルに続いて登場したのがヒコザルです。
ヒコザル、見た目の割に大健闘。素早い立ち回りでサトシに実力を見せつけますが敗北。
その際にシンジは「使えない」と吐き捨てます。
サトシは怒り心頭です。

互いに1体を残し、サトシがピカチュウを。シンジがエレキッドを繰り出します。
最終的には引き分けに終わるのですが、ここで二人はお互いに最悪の印象を抱きながら別れます。

シンジは究極の合理主義者なのです。

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このようにDPは
ポケモンとの友情や信頼を大切にするサトシと
超合理主義的トレーナーシンジの対立という構図で幕を開けていくのです。
シンジに一切ギャグ要素はありません。
ポケモンシリーズの雰囲気としては異質です。

シンジは毎話に登場するわけではありませんが、度々衝撃的な登場の仕方をします。

(ジムリーダー戦で活躍できなかったマリルリを見ず知らずのギャラリーの少年をあげてしまうなどサトシが絶対にやらなさそうなことを繰り返し行います。)

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度々小競り合いを行う両者ですが
この後2人に決定的な出来事が起こります。

とある街のダブルバトル大会(二人のトレーナーがチームを組んで一匹ずつ出しあって戦う)で偶然にもサトシもシンジはパートナーになってしまいます。

何とかチームバトルをしようとするサトシですが、そこでもサトシとシンジの価値観の違いがぶつかります。

決定的だったのはこのあと。
シンジが前述のヒコザルに無茶な指示を出します。
捨て身、それはまるでヒコザルをわざと傷付けようとしているかのような不可解な指示です。
サトシは止めるように言いますが、一切シンジは聞く耳をもちません。

結局力を発揮することができなかったヒコザル
そんなヒコザルを、シンジは夜もトレーニングを課します。他の手持ちポケモンに技を出すように命令し、徹底的にヒコザルを痛め付けます。
ロケット団ニャースも目に涙を浮かべる程の悲惨な光景。おいおいテレ東7時の枠だぜ。

しかし、シンジは当て付けでヒコザルにこのようなことを行ったわけではありませんでした。
このヒコザル、過去にゴローンの群れに襲われ絶体絶命の時にとてつもない力「もうか」を発動したことがあるそうです。
いわゆる孫悟飯体質のようです。

シンジはシンジなりにヒコザルの力を引き出そうとしているのです。

そして翌日、ダブルバトル決勝。
シンジはここでも連日の疲れが残るヒコザルを繰り出し、無茶な命令を繰り返します。

その光景を見て我慢ならないサトシ

なんと、ヒコザルに指示を出します!

アドラーもびっくりですね。

ヒコザルも条件反射のようにサトシの命令通り動き、これまでにないような動きを見せて活躍。ダブルバトル大会は皮肉にもチームワークの欠片もないサトシ&シンジチームの優勝に終わります。

試合後、申し訳なさそうにシンジの所に戻るヒコザル

シンジはヒコザルを受け入れませんでした。

こうしてシンジはヒコザルを捨てました。

そんなヒコザルに救い手を差し伸べたのはサトシでした。

続きはまた後日。

第一回 Agola開催しました。

都内某所にて9時~11時 Agola開催しました。

メンバーは6名
Twitterアカウント(何故かはてなブログにいじわるされて元のツイートが貼り付けられませんでした)

https://twitter.com/wakate_kyouyu/status/1031857709446922240?s=19

見出しに分けて内容を紹介していきます。


ま まーた先生 に にっせん先生 N N先生
ト トビ先生 ば なるさわばしこ先生 A わい

事実と異なる点もあるかもしれませぬ。
あくまで私の解釈ですのでご容赦ください。

● 自分のクラスの自慢は何だ!

A「やっぱり掃除ですかね。10分掃除!とにかく仕事が早い!早く動けばそれだけ自分達で使える自由な時間が増える。メリットを提示することによって内在的価値観から自発的に掃除を頑張るようになりますね。」

ま「私は係と当番を分けています。やらなければいけない当番活動とは別に、何をしてもいい係を作った。その分、子どもたちがやりたいことをみ見つけて進んでやるようになりました!新聞係なんかは専用の用紙をつくってあげたり、もちろんある程度手を貸してあげることも必要ですが…解散も結成も自由。但し一言声をかけるようには言っています」

N「一週間や二週間で席替えをします。方式は対面式です。新しい子とかかわる必然性、そして席替えそのものの価値が子どもたちの中で軽くなる。色んな友だちと、色んな座席で学ぶことによってどの席が集中できるのかを自分でわかってほしい。但し、好きなもの同士ばかりにならないように意図を話しておく必要があります。」

に「私は班長制を敷いています。班ごとに並んだり、掃除の反省会を班長を中心にやっています。正直名前ばかりの班長になってしまっているところもあるけれど、経験することで班の友たちの動きを見たり、気にしたりする子が増えてきた。経験してわかることってたくさんあると思うんです。」

ば「私もそれは共感します。飲み会の幹事をやると、小銭とか釣り銭とか色々大変ですよね。だから一度幹事をやったことのある人ってすごく気を使ってくれたりするんですよね。(話は戻って)私のクラスは勉強は苦手な子は多いんですけど、とにかく笑顔が多いんですよね。自分のしてしまった悪いことを気軽に言い合える雰囲気を作っています。先程の立場を人が育てるではないのですが、話しやすい雰囲気とリーダーになった子や、その周りの子をフォローできる子も増えてきました。」

ト「ジュニアバスケのコーチをやっていく中で学んだこと、体育を軸にしています。人間は才能の良し悪しもあると思うのですが、正しい体の使い方をすればある程度はスポーツはできると思うんです。それを子どもたちに伝えています。勉強も同じです、正しい勉強の仕方をすればある程度は力は伸びると思っています。子どもたちがそれを知れば、できない…何故てできないのか…どうすればできるのか、と子どもが進んで学ぶようになるのではないかと思っています。」



このような具合で始まり
様々な議論、共感がありました。

ひょっとしたらAgolaの様子を某企業が記事にしてくださるやもしれませぬ。

今回改めて思ったのは
二名の初任者から学ぶことがとても多かったということでした。

現場では初任者は謙虚であることを求められるので自分のクラスの成功例や実践を嬉々として語る機会など皆無なわけですが、聞けば聞くほど2名の初任者がもっていて、私にない部分が身に染みて伝わってきました。

なるさわばしこ先生はとにかく賢く、脳みそに保持できる情報量が多い。アウトプットの達人でした。私は失礼ながら途中で頭から湯気を出しました。

まーた先生は落ち着いたみんなの兄貴のような存在で、子どものやる気を引き出す達人です。特殊な環境に身を置いてらっしゃるので、ならではのよさなどポジティブな発信が多く勇気づけられました。

N先生は私と慣性が似ていました。一つ一つの実践に根拠があるので、自分のクラスに置き換えて考えることができました。

次回Agola 9月に都内某所にて行います。
気軽にご参加ください。

017 妄想!!校務文掌改革!!

おはようございます。

2日続けてblogを更新できるなんて夏ですね。

みなさん、今の給料には満足していますか?
現在我々は大体8:30~17:00 1時間の休憩を含んだ6時間半の労働に対する賃金を受け取っております。
そして、熱心な教員は給料に関係しない朝早くからの労働、夜遅くの労働、時には休日出勤を好き好んで自主的に行っていることとなっております。

しかし現実、このような解釈でよろしいでしょうか?いけませんよね。

実態はとても8:30~17:00では仕事は収まらない。
とても休憩なんて取れない。与えられた時間を大きく越えて仕事をさせられていることがザラです。
その上、教員には同調圧力があります。
何故か「こんな大変な仕事をさせられて許せぬ」ではなく、「私がこんな大変な仕事をさせられているのに、楽をしている人がいて許せぬ!」という、手の取り合いよりも足の引っ張り合いを好む人が多数存在します。

そんな中で
「いつも早く帰って何してるの?」
「本当に仕事、終わってる?」
なんて、プレッシャーをかけられることも。

その件はWATCHA TOKYOでも話をしたことですが記事にもまとめているのでご覧ください。

が、立ち返るべきはそこではなく
我々はそもそも何のために働いているのか。

私は「生活のため」と即答します。
働き賃金を得ることで、生活を維持できます。
よく「仕事をなめてる」、「社会人として~」、「子どものことを~」と支離滅裂なことを言われますが、違いますね。まずは自分なんですよ。
自分が健康で文化的なある程度の潤沢のある人生、生活を送るために、お金をもらうために教員という選択をしたことを忘れてはいけません。
その中で、よりお金が多くもらえる仕事ではなく教員を選択したのは、自分の能力や適正、趣向を分析した結果です。
だから、教員を選んだからと言って自分の時間を仕事の犠牲にしなくてもよいのです。

私の元に来たリプライで衝撃的なものを紹介します。




我々は仕事に時間を捧げているのではない。
お金を稼ぐために仕事をしているのだ。

ボランティアは労働=お金をタダで配っているようなものです。
ボランティアは善ではありません。
縁日で屋台がたくさん出ている中で、たこ焼きを無料で配ったらどうでしょうか。
代金をもらって営業しているたこ焼き屋の営業妨害もいいところ、その上利用者からは「ぼったくり」と言われるでしょう。

今、教員はそのいう状態なのです。
労働のタダ配り、営業妨害だらけなのです。

今一度我々は労働に賃金が発生する。
労働には価値があるということを認識すべきです。








そんな中で改革します。

校務文掌をオークション形式で決めます!

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学年主任 年収+20万
教科主任 年収+5万
児童指導、研修主任、運動会主任 年収+10万
高学年担任 年収+5万

などなど。
小さな仕事にもインセンティブがつくようになります。

その対価として『特給法?給特法?』
雀の涙量を放棄します。

稼ぐために若手も必死です。
体育主任のインセンティブが欲しいから、そのサポートにつくもよし。
逆にゆるく仕事をしたい人はインセンティブを選択しないという方法もあり、家庭を優先とした働き方もできます。

残業している人は金を稼ぐためにやっているわけだから、これで早く帰る人にも批判は集まりません。

いくら働いても給料は変わらない。
だからやる気がなくなる。
でも、誰かがやらなければいけないという正義感から誰かがする。
している誰かがやらない人の悪く言う。
職場の雰囲気が悪くなる。

そんな負のスパイラルはもうやめましょう。

みなさんお金のために働きましょう。

労働には価値があります。
学校のために嫌々頑張っているあなた。
実は職場の労働生産性を著しく下げている可能性があるよと水を差させてください。

金のために働くことは汚いことではありません。

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016 考察!!高学年担任!!

先日は駄文にお付き合いいただきありがとうございました。

私が教員に興味をもった最初のきっかけは何を隠そう学園ドラマです。

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まずは『ガッコの先生
現役の小学生だったのですが、堂本剛が演じる桜木先生がとてもカッコよくて憧れました。
桜木先生は理髪店の息子である教え子に髪を洗ってもらいながらお互いに悩みを相談しあったりする様子が良く見られました。
子どもながらこんな先生がいたらいいなあなんて思っていた記憶があります。


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続きまして『新・キッズウォー』です。
初代キッズウォーは学園ドラマというよりは、ファミリー劇場のような展開、やがて主婦層からさらに幅広い世代に指示を受けてから学園ドラマに近い形に展開されていましたが、舞台は中学校でした。
そういう意味では新キッズウォー1が唯一の小学校が舞台の学園ドラマだったのでしょう。

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加地千尋さん演じる河合花が、学校のおかしな常識にこのように時にはバットを振り回してでも権利を勝ち取ろうとする姿が爽快でした。

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色々ありながらも、最後はクラス全員で「先生やめないで」と思いの丈をぶつける様子がとても心に残りました。

最後はみなさんの記憶にもあるでしょう。

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女王の教室ですね。
先生vs子ども、といった明確な構図で成り立った物語が、先生と子どもが徐々にわかりあっていくという賛否両論別れる内容ですが、どちらにも共感がもてるようなストーリーが話題を呼びました。
主役級を演じたのは志田未来さん。迫真の演技と、鬼の阿久津先生を乗り越えようとする子どもたちの姿勢に強く心を打たれた記憶があります。



子どもと先生が対立したり、協力したりしながら問題を解決していくストーリーが昔から本当に爽快で大好きでした。
今思うと、これらのストーリーの中心となっている子どもたちは『高学年』だということです。
『斎藤さん』、『エジソンの母』など、低学年が中心としたドラマは子どもを取り囲む暖かい日常ストーリーで、子どもは徹底的にかわいらしい庇護の対象として描かれています。
対して高学年を中心とした作品は、時には残酷で、そして大人の見えないところで主体的に、そして組織的の動きを展開していく子どもたちの様子が描写されています。

これらの作品は我々教育関係者が作ったわけではないわけであり、一般的イメージなのだと思います。

私が個人的に心を打たれ、教員の仕事に興味をもったのは圧倒的に高学年が描写された作品でした。

6歳から12歳
1年生の担任、6年生の担任は明らかに求められる資質、能力は全く異なります。
私見としては、同じ小学校免許で1年生も6年生も担任できるというのは少し疑念があるレベルです。

全く違う性質、全く違う世界。

それなのに何故か教員の世界では

『高学年の担任は大変』
『力がないと高学年の担任はできない』

などという謎の風潮があります。
私はここまで大きく性質の違う二つの仕事を比較する必要があるのだろうか。
そして、それが職場の雰囲気を悪くしているのではないかと思います。

よく聞かれますよね

『あの人は低学年しかもてないから』
『○○さんは信頼されているから毎年高学年担任だよね』

私な一番大変だと思うのは特別支援級、次いで低学年。

性格や特性も人それぞれ。
感じ方は人それぞれなのに。
どうしてそういう選民思想がそこに生まれるのだろうか。

長すぎる前置きですが、持論を展開していこうと思います。










私の考える理由としては
教員は『縦の関係を前提とした学級経営』を求められているからなのだと思います。

先生が偉い。子どもは先生より下。
先生が言うことを聞かせて、先生の言うことを聞く子どもにする。
そのため~しましょう。~はいけません。
という方法論を研修で教えられます。

そして、縦の関係は安定感があります。
子どもが先生は上だと思えば、考えることをせずにただ先生の言うことを聞く=偉い、いい子
どの担任になってもそれは共通しているため、ある程度徹底すれば新卒未経験初任でもある程度の学級経営はできます。
子どもは考えないから。

『先生に言っちゃおう~』

という台詞がその象徴ですよね。
目の前で怒ったおかしな行為に対しての対抗策が『偉い人への報告』と考えることなく選択されます。これでは生活力も何もつきません、自己決定能力を培う機会を思考停止によって奪っています。

しかし、高学年になると疑うことを覚えます。
学級崩壊するクラスは、緻密にボスを中心にまとまりが見られる場合があります。
学級崩壊というのは学校からの目線であり、皮肉にも担任という存在を排除しただけで立派に組織として成立しているわけです。

ただ、学級崩壊は担任の責任だけではないと思います。低、中学年のうちに無条件の降伏を前提とされてきている子どもたちが高学年になり、知恵がつき子どもたちが権力争いを挑んでみるわけです。
それに対して無条件の縦の関係になれてしまっている教員はあまりにも無力である。

縦の関係は無条件で成立するものではない。
低学年、中学年は自分一人で生きていく、判断する、生活することが難しいため大人の庇護を求める。庇護を代償に望む通りに無条件に服従する。
だから推奨されているやり方でも通用するのです。

高学年は大人の庇護を必要としない。自ら考え、動き、選ぶことができる。
言うことを聞くことによって不必要となった庇護以外の対価が得られない場合は縦の関係を築くメリットが子どもにないのです。

力のあると言われる先生は、子どもから尊敬される何かをもっています。
授業力、コミュニケーション能力、支配力…etc
高学年相手に縦の関係の継続のためには、莫大なパワーが必要なのです。
なので、高学年担任にはいわゆる力のある人がリピートする傾向があります。
5年6年5年6年。ゴロゴロという隠語も存在します。

私は思います。
高学年担任は力がないとできないのではありません。力がないと高学年の担任をできないようにしているだけだと思っています。

学園ドラマに出てきた主人公の先生たちは皆、高学年の先生と対等に、横の繋がりを保持しています。
アンチテーゼ的に、縦の関係で頭ごなしに怒鳴る先生が敵方として描かれています。

ドラマは我々教育関係者が脚本を作ったわけではありません。

だからこそ、世間の望む「よい先生」のイメージはやはりガッコの先生の桜木先生、新・キッズウォーの大月先生のような横の繋がりの先生なのではないでしょうか。女王の教室の阿久津先生も、最後まで視聴して見ると子どもを下に見ているわけではないということがわかります。

ただ、ここまでだと誤解を招きますね。

縦の関係を放棄し、横の繋がりという視点をもてる人間は良い先生だ。縦の関係に固執する先生は古い。と、論じているように感じられてしまいますね。

結論から言うとそう思っていたいです。
その方が楽だからです。

でもそうではないのです。

庇護を必要とする低学年の担任は私のような縦の関係を苦手とする教員には難しいのです。
私は一年生の担任をもったときは、横の繋がりの悩みました。
どう頑張っても権力を差し出してきます。そして、無条件の愛、庇護を求めてきます。
低学年を何年も続けてもっている先生は、子どもたちの困り感や、つまずきに見事に答えます。拾います。見逃しません。
「困るのも人生」、「他者の課題」。
一人前として扱うことで、傷ついてしまうこともあれば、行動の価値を正しくとらえられずに間違った方向に流れてしまったり、語彙力がないために子どもと私の認識が大きく異なってしまいフリーズあるいは泣いてしまうことも多々ありました。

私は次に低学年の担任をもつまでに、擬似的な縦の関係の構築を考えています。
そのあたりはアゴラも含めて時間をかけて自分に落とし込もうと思っています。

長々語りましたが短くまとめます。

低学年担任はオンロード、高学年担任はオフロードのコースです。
ただし、研修ではオフロードの走り方しか教えてくれません。オフロードの対策をしようものなら「邪道だ」と批難されます。
だから教員村にはオンロードが得意な人が多いので、いつもオフロードは数少ないオフロードが得意な人が走ります。
教員村の村民たちはオフロードはオンロードより難しいと思い込んでいます。
教員村の新しい住民たちは何も疑うことなく今日もオンロードの練習だけをしています。

決して高学年が難しいわけではありません。
と、私はそう思っています。

番外 若手Aがアドラーと出会うまで 後編

もう2年前ですかね

晴れて1年生の担任になった。
楽しい1年だったことは認める上で、教員という仕事について本当に考えさせられる1年だった。

教員は子どもたちのトップに立ち、集団を導き、生活に必要な知識や技能、そして意識を伝えていくもの。要はスポーツでいう監督のようなイメージをもっていた。

担任2回目とあって、割と集団に対する指示や指導は的外れではないはず(未熟ではあるが)。今回は初任研担当とやらもいる。心強い。
しかし、こちらがどれだけ言葉かけを精選しても起きるアクシデント。

給食配付中に失禁、移動教室最中の失踪、座っていることへ耐えかねた暴走。

どうして?何で?真面目にやっているのか?
必死に子どもに訴えた、でも、変わらない。
それは当たり前で、子どもたちは大真面目に生活している。つまるところの生活力が低いだけ。

真面目に頑張る子ども、頭を抱える私。
頑張っていない人なんていないのに、みんなが苦しんでいる空間ができあがってしまった。

それが嫌で今度は褒めることにした。
小さなことでも、よく頑張ったね、できたね。
割と集団として機能するようになった。
褒めるって素晴らしいな、ちょっと手応えを感じていた。

でも、すぐに見えてきた。
「先生筆箱なくなっちゃった。」
「先生、○○さんの筆箱、僕が見つけたよ。」

自作自演

「先生、こんなにたくさんゴミ拾ったよ。」

ゴミの創作

「先生、△△さんが~していました。」

出来上がる監視社会。

結果、数人の私の期待に応えられない子はとどまることを知らず暴れまくり、その子たち意外は私の期待を満たすことを行動原理とした。




きっもちわるうううううううっっっ!
なんなんだこれはああああああああ!

今まで、教員による統率が不可能な状態のみが学級崩壊だと思っていたが、そうではなかった。

私はこの時に
「俺がやりたい仕事はコレじゃない、俺は低学年担任は向かないんだ!」
なんて、安易な思考に走っていました。

その時の夏休みに、たまたま手にした本がアルフレッド・アドラー思想について書かれている「嫌われる勇気」であった。

その時、この気持ち悪い状況に対してそれなりに危機意識をもっていた私は「褒める」ことに懐疑的になっていた。
B子とのこともあり「極度に子どもに嫌われることを恐れている」自分を変えたくて、書店で購入して読んだ。

アドラーの思想が、私にはその時教えてくれたこと。


・私は他人に期待しすぎていた。指示を出せばその通り動き成果を出す。褒めれば思った通り行動してくれる。嫌われることを恐れなければ思った通り行動してくれる。

・こちらが子どもたちを「操作しよう」という意思を子どもたちがくみ取り、私を中心とした私の期待を満たすためのコミュニティーができあがってしまった。

以前に荒れた6年生と関係を築けていた時には、こちらから操作をしよう。この子たちを良くしようという思いは偶然にもまるでなかった。
だから子どもたちが信頼してくれていた。
アドラーはこのことを「横の関係」といった。
思い上がっていた私は子どもたちに私が一方的に何かを与えてあげていたと思っていた。

でも、思い返してみると自分がこうして採用されて、教員として頑張れているのも、あの時の6年生が何気なく言葉を交わしてくれたからなんじゃないか。

と、思うと一生懸命先生をするのがばかばかしくなってきた。

夏休み明け。
褒めるのをやめた。叱るのもやめた。
価値付けをした。話し合いをした。

「○○できてえらいね。」を
「○○したおかげで、こんなにいいことがあったね。ありがとう。」にした。

「○○やめなさい。」を
「○○したから、こんなことが起きているけどどう思う?」にした。

クラスの中で、暴れまわる数人が輪の中に入るようになった。3月には保育園からの引き継ぎで「10年に1人の逸材」と言われた男の子が、6年生を送る会の代表の言葉を言う人に立候補し、選ばれた。
人のよさを探せる集団になっていった。

アドラーは優しくない。とても厳しい。

普通に生活していれば、私とて教員である前に人間であって、これまでの生活経験と積み上げてきた価値観から、子どもよりも圧倒的に自分が偉い存在なのではないかと染み込んだ偏見がおさえられなくなることもあったが、それを許してはくれなかった。

感情で怒った時に、これまでにない罪悪感と嫌悪感が私の中にふつふつ煮えたぎるようになった。

翌年4年生の担任になった。
そこからは大きな失敗は一度もないが、もしあのまま安易に子どもを操作する方法を追求し続けたとしたら、学校は私にとって大変気持ち悪いビジネスの場に成り下がっていいただろうなと思う。

ただ、1年生担任だった日々は本当に楽しくて、充実していたが、向き不向きで言ったら向いていないと思う。1年生はやっぱり、縦の関係を上手に築ける視野の広い先生が向いていると思う。

まとまらない文章ですがこんなところです。

B子、荒れた6年、1年生担任
これらの経験がなければ、アドラーの思想に共感することもなかったのだろうなと思う。
私のたどってきて、作り上げようとしてきたもやっとしたイメージを具体化したものがアドラー心理学だったということでまとめましょう。

アドラーが全てだとは思わない。
だから、皆さんにアドラーを薦める気は毛頭ありません。

色んな先生が色んなやり方で子どもを育てる中で、私はアドラーと共に今後もたくさんの子どもたちと成長していきたいと思います。